ブッダの生涯を追いかけて Looking for a Life of the BUDDHA

ナーランダー Nalanda

ナーランダーは、王舎城から13kmのところにあります。ブッダの布教活動においては、重要な地とされておらず、仏教の八大聖地でもありませんが、ブッダは、たびたび訪れており、何といっても、玄奘がインドに渡った時は、巨大な仏教大学があったことで、知られています。
十大弟子の内、サーリプッタとモッガーラが、ナーランダーの出身と伝えられますが、二人とも、ブッダより先に亡くなっています。
玄奘は、唐の時代の629年に国禁を破って出国し、仏蹟を巡礼した後、ナーランダ大学で学び、学長代理にまでなりました。645年に帰国し、大唐西域記を著し、当時の状況を知るための貴重な記録になっています。
多くの日本人も、インドに行って仏教を学ぼうとしたが、果たせず、最初に仏蹟巡礼に成功したのは、明治時代の、本願寺派の北畠道龍上人であるといいます(『インド佛蹟巡禮』。
義浄も、海を通ってインドに渡り、ナーランダ大学で学び、695年に帰国し、貴重な記録を残しました。
グプタ朝時代、ここに仏教大学が作られ、パーラ王朝時代、隆盛を極め、玄奘もここで、修業を積み増した。その仏教が、唐を経て、日本にも伝えられました。数千人の僧が学んでいたと報告されています。

ナーランダーの街の入り口です。
ナーランダーの遺跡の入り口近くにある建物跡。
ナーランダー遺跡の入り口。
ナーランダーの建物配置図。
巨大な建物が並んでいましたが、発掘されているのは、ごく一部であることがわかります。
ナーランダーの敷地は、広大な公園になっていました。
巨大な建物群が近づいてきました。
建物は、基本的には、2階建てで、複雑な構造になっています。
ここは、2階の議論した場所と考えられています。
回りに、小部屋が並んでいます。
延々と建物が並んでいるのがわかります。
これでも、まだほんの一部しか発掘されていないといいます。
2階から2階へ、空中階段を通って移動できるようになっています。
授業が終わったら、次のクラスに移動したのでしょうか?
僧達の部屋。
部屋の中は、穴倉のようになっていました。
磨かれた石は、その上に灯りを置いて、回りを照らすためにあると考えられています。
1階部分。
小さな部屋が並ぶ構造です。
漆喰跡が少し残っていました。
当時の姿を、彷彿とさせます。
トイレの跡と考えられています。
ここは、祈りの部屋だったものと思われます。
ナーランダーのシンボル的な存在の仏塔。
サーリプッタの仏塔を考えられています。
仏塔は、立ち入り禁止ですが、仏像や、仏塔が回りに並んでいるのがわかります。
多くの信者が、寄進したものでしょうか?
広大なナーランダー遺跡の様子。